大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

仙台高等裁判所秋田支部 昭和37年(ネ)32号 判決

控訴人 五十嵐清女 外二名

被控訴人 五十嵐美津 外九名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

控訴人ら代理人は、「原判決を左のごとく変更する。控訴人ら、被控訴人らの被相続人である亡五十嵐清市郎が昭和二七年九月四日付をもつてなした別紙記載の遺言は無効であることを確認する。訴訟費用は全部被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、なお、予備的に、控訴人悌治と被控訴人らとの間において、「右遺言中『悌二ニハ当時(美術学校在学ノ頃)ノ金額ニシテ(在校当時更ニ卒業後三年ハ送金)七千円ト算定スル又終戦後ハ家屋ヲ建テル為ノ材木モ与エタノデスデニ遺産相続分ヲ超ヘタモノトスル』とある部分(以下遺言第三項という。)は無効であることを確認する。訴訟費用は全部被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴人ら代理人は主文第一、二項と同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張ならびに証拠の提出、援用および認容は、

控訴人ら代理人において、

一  確認の利益について

控訴人清女、同源悦は本件遺言全部の無効確認を求める利益がある。すなわち、(一)本件遺言中には「推定相続人ハ齊ヲ除イテ相続抛キスル事ヲ望ム」、「他長女清女次女幸恵ハ放棄シテクレルト思フ」等の記載があり、右遺言が真正に成立したものとすれば、同遺言は被控訴人齊にのみ被相続人清市郎の遺産全部を取得させ、控訴人らには遺産を与えないのが右清市郎の意思であると解される。もつとも、本件遺言中の右各記載のみによつては直ちに相続放棄の効果は法律上生じないであろうが、同遺言が真正に成立したものとすれば、少なくとも、清市郎の意思は被控訴人齊以外の相続人には自己の遺産を与えることを欲しなかつたことにあると認められるおそれがある。(二)清市郎の生前、その資産中から、昭和二三年頃宅地八三八坪余、建家、倉庫、畜舎等一七五坪、田畑、原野等相当の土地、建物が当時シベリヤ抑留中で生死不明の被控訴人齊名義に、その頃宅地合計七二二坪五合六勺、原野が同被控訴人の母五十嵐延恵名義にそれぞれ所有権移転登記されているが、これはいずれも五十嵐延恵が清市郎の意思によらないで擅にしたものであり、しかも被控訴人齊は当時生死さえ不明であつて所有権移転登記の意思を表示することが不能であつたのであるから、右不動産はいずれも遺産分割に際しては当然相続財産の中に算定さるべきである。したがつて、清市郎の全財産を被控訴人齊一人に取得させることが果たして清市郎の真意であるかどうかは右不動産の譲渡が事実であるかどうかにかかり、このことは控訴人らの相続財産分割請求権行使の範囲に法律上重大な利害関係がある。それ故、控訴人清女、同源悦は本件遺言全部の無効確認を求める利益がある。

二  本件遺言全部無効について

原判決は「遺言書作成に関して修二が何らかの助言を与えたことは推認するに難くない。しかし、修二やその母延恵が清市郎を強要ないし同人に口授して遺言書を作成させた事実まで推認することはできない」としているが、本件遺言書と被控訴人修二の手紙(甲第四号証の一、二)の内容および文調がいかに共通しているか、とくに事実でない間違点まで同じであることは助言を与えたにとどまらず、同人らが口授して作成させたことを立証して余りがあり、また前述のような清市郎の資産に対する延恵の擅断行為を控訴人らに知らせないためにも遺言書の必要を感じ、病弱の清市郎をして無理に遺言をさせたものであり、遺言書もその日付のとおり昭和二七年九月四日作成されたものではなく、もつと後に作成されたと思われる。なお、原判決は「清市郎が明治一〇年に生まれて高等小学校卒業後農業に専念してきた人物である」と認定しているが、清市郎が農業に専念したのは数え年二六才ぐらいまでのことであつて、同人は大正二年以後は胃の持病で農業に従事するようなことはなく、もつぱら医者通いで自分自身の養生専一に生涯を過ごした。

三  本件遺言第三項の無効について

控訴人悌治が東京美術学校に在学した五年間中最初の一年間の学資金は祖父清三郎の存命中の仕送りであつて、清市郎とは関係なく、卒業後は三年はおろか、ただの一年間も仕送りを受けていない。また材木は清市郎から贈与されたものではなく、同人から当然返済を受くべき費用の弁償にすぎない。

と陳述し、

被控訴人ら代理人において、控訴人らの右一の主張を否認し、その一の(一)の主張に対し、本件遺言中「相続抛キスル事ヲ望ム」、「長女清女次女幸恵ハ放棄シテクレルト思フ」等の記載だけで相続放棄の効果を生じないことは控訴人ら主張のとおりであつて、右記載は単なる希望の表明にすぎないのであるから、控訴人清女、同源悦が本件遺言全部の無効確認を求める法律上の利益を有しないこと明らかであり、控訴人らの一の(二)の主張に対し、本件遺言とは法律上別個の事実たる被相続人清市郎の生前における財産処分と本件遺言とを混同して論じているばかりでなく、控訴人らの相続財産分割請求権行使の範囲に法律上利害関係があるのは右生前の財産処分であつて、本件遺言ではないから、この点からしても、控訴人清女、同源悦には確認の利益がないと陳述した。

証拠〈省略〉

理由

被控訴人らは、控訴人清女、同源悦は本件遺言全部の無効確認を求める法律上の利益を有しないと主張するので、まず、この点につき検討する。控訴人らの主張によると、清市郎は昭和二八年一月一六日死亡し、控訴人清女、同悌治はそれぞれその長女、二男として相続人となり、控訴人源悦は清市郎の二女幸恵の子であるが、幸恵が清市郎より遅く昭和三二年八月二三日死亡しその相続人らは控訴人源悦を除いてすべて相続放棄の申述をしたため、控訴人源悦は清市郎の相続人たる幸恵の地位を単独で相続し、被控訴人美津は清市郎の妻としてその相続人となり、その余の被控訴人らはすべて清市郎の長男清徳の子であるが、清徳が清市郎より早く昭和二〇年八月一五日死亡したため、代襲相続をした者であるところ、清市郎作成名義の別紙記載の遺言は全部無効であるから、その確認を求めるというにある。ところで、右遺言中「推定相続人ハ斉ヲ除イテ相続抛キスル事ヲ望ム」、「長女清女、次女幸恵ハ放棄シテクレルト思フ」とある部分は、いずれも、その一面においては、被控訴人斉以外の推定相続人に対して相続放棄をしてくれるようにとの希望を表明したものにすぎず、これより直ちに相続放棄の法的効果を生ずることのないことは被控訴人ら主張のとおりであるが、右各遺言部分は、その反面において、その余の遺言部分と一体となつて、被控訴人斉の相続分は他の推定相続人に対する指定相続分をすべて差し引いた残り全部とする旨を定めているものと解されるから、右各遺言部分をもつて被控訴人ら主張のように希望表明以外の意味をもたないものとなすことを得ない。かえつて、右遺言は、被控訴人斉の相続分を右のように定めるとともに、「若シ問題ガ起キタトキハ各々ノ現在ノ相続分ノ最低限度ノ遺留分ノミヲ他ノ推定相続人ニ与エル」(以下遺言第二項という。)と定め、これをもつて被控訴人斉、控訴人悌治以外の推定相続人たる控訴人清女、二女幸恵、被控訴人美津らが相続放棄をしないときは、各自の相続分をその遺留分を害するにいたらない最低限度の割合に減縮する旨の停止条件附相続分の指定をなし、「道ニハ若シ要求ガアルトキハ其ノ遺留分ノミ即チ妻ノ受ケル分(三分ノ一)ノ半分ヲ与エル」と定めて被控訴人美津につき遺言第二項と同一趣旨を重ねて確認し、遺言第三項により控訴人悌治に対しては生前贈与限りとしそれ以上は相続させない旨の意思表示をなしているものと解するのが相当であり、控訴人清女、二女幸恵が相続の放棄をしていないことは原審証人大川源治の証言、原審における控訴人清女本人尋問の結果によりこれを認めることができるから、遺言第二項が無効であるかどうかは控訴人清女および二女幸恵の各相続人たる地位に影響を及ぼすこともちろんであるが、遺言第二項の無効が確定されただけでは、同項による控訴人清女、二女幸恵らに対する相続分指定の法律効果が生じないことが確定されるにとどまり、その結果、控訴人清女、二女幸恵が清市郎の遺産全部を法定相続分にしたがい相続すべきか、控訴人清女、二女幸恵の相続分は民法第九〇二条第二項により算定すべきかは遺言第二項以外の他の遺言部分もともに無効であるかどうかにかかるのであるから、本件遺言全部が無効であるかどうかは控訴人清女、二女幸恵の相続分に変動を与え、二女幸恵の相続分の変動はひいてその単独相続人たる控訴人源悦の法的地位に影響を及ぼすものというべく、しかも本件遺言全部が無効であるとの控訴人清女、同源悦の主張を被控訴人らが争つていることも明らかであるから、本件遺言全部の無効が不確実であるため控訴人清女、同源悦の法定地位が不安定となり、この不安定は右の無効が判決をもつて確定されることにより除去しうるものというべく、控訴人清女、同源悦は本件遺言全部の無効確認を求める法律上の利益を有するものと解するのが相当である。したがつて、右被控訴人らの主張は採用の限りではない。

そこで、本案についてみるに、清市郎、清徳および幸恵の死亡およびその日時ならびに同人ら、控訴人らおよび被控訴人らの身分関係および相続関係が前記控訴人らの主張のとおりであること、被控訴人俊三が清市郎作成名義の昭和二七年九月四日付遺言書が存在するとして山形家庭裁判所鶴岡支部にその検認を申し立て、昭和二八年二月一〇日同裁判所においてその検認が行われたことは当事者間に争いなく、右遺言書の記載内容が別紙記載のとおりであることは被控訴人らの明らかに争わないところであるから、これを自白したものとみなす(ただし、そのうち遺言第三項については当事者間に争いがない。)。しかして、右遺言書は縦書で、清市郎が昭和二七年九月四日自書、捺印してこれを完成したものであることは成立に争いのない甲第一号証の一、二、乙第二号証、同第四、第五号証、原審における鑑定人山田重男の鑑定の結果により認めることができ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

控訴人らは、本件遺言全部無効の理由として、まず、清市郎は遺言当時老衰で半身不随、しかも栄養失調で心神耗弱の状況にあつたと主張するけれども、前掲乙第二号証の一部、同第四、第五号証、原審証人滝沢潔、原審における被控訴人攻法定代理人五十嵐延恵および被控訴人美津の各本人尋問の結果、原審における鑑定人山田重男の鑑定の結果を綜合すると、清市郎は、右遺言当時、数え年七六才で、胃潰瘍、胃酸過多症の持病があり、足の神経痛のため歩行が困難であり、視力も衰えていたけれども、半身不随の状況にあつたものではなく、視力の衰えはあつても眼鏡をかければ文字を手書するに差し支えない程度であり、もちろん栄養失調などにはなつておらず、精神状態にはなんらの異常がなかつたことを認めることができ、乙第二号証、甲第二号証、原審における控訴人清女本人尋問の結果、原審および当審における控訴人悌治本人尋問の結果(原審分は第一回)中右認定に反する部分は措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はないから、清市郎は右遺言当時遺言をなしうる意思能力を有していたものとみるのが相当であり、右控訴人らの主張は理由がない。さらに、控訴人らは、右遺言書は、法律用語を連ね、大学ノートの紙片にペン字をもつて書かれていて、一見して同人の真意に出たものでないことが明らかであるばかりでなく、遺言書と被控訴人修二の手紙(甲第四号証の一、二)とは内容、文調、間違点まで共通しているから、遺産の分散をおそれ清市郎に擅に遺言書を作らせようと企てていた被控訴人斉、同修二、その母五十嵐延恵が清市郎の病状に乗じ、同人を強要あるいは同人に口授して作成させたものと認められるのであつて、清市郎の資産に対する五十嵐延恵の擅断行為を控訴人らに知らせないためにもそのようにする必要があつたと主張する。遺言第三項中には東京美術学校在学中の学資金送金の点についてのみ事実と相違する点があることは後記認定のとおりであるが、同項以外の遺言部分に事実と相違する点のあることはこれを認めるに足りる証拠はなく、右遺言第三項におけると同様の相違点としてとくに注目すべきものは右被控訴人修二の手紙には存在しないことは成立に争いのない甲第四号証の一、二により明らかであり、控訴人ら主張のような五十嵐延恵の擅断行為があつたことは、前掲乙第五号証、原審における被控訴人斉および被控訴人攻法定代理人五十嵐延恵の各本人尋問の結果に照らしたやすく措信できない甲第五号証の一、二、原審における控訴人悌治本人尋問の結果(原審分は第一、二回)を除き、これを認めるに足りる証拠なく(なお、清市郎から被控訴人斉への家、屋敷等の贈与およびその登記は、被控訴人斉が終戦後シベリヤに抑留されていた当時、同被控訴人に知らせないでなされ、同被控訴人はこのことを復員後清市郎から聞いたことは原審における被控訴人斉本人尋問の結果によりこれを認めることができるが、右贈与および登記が被控訴人斉の不知の間になされたことは、右控訴人らの主張を支持する根拠とはなしがたい。)、また被控訴人斉、同修二、その母五十嵐延恵が清市郎に擅に遺言書を作らせようと企てていたとの控訴人らの主張を認めるに足りる証拠もない。もつとも、右遺言書が大学ノートの紙片にペン書されていることは当事者間に争いなく、その遺言書には「推定相続人」、「遺留分」、「相続分」等の法律用語が使用されていることは前記擬制自白にかかる事実から明らかであり、また前掲乙第二号証、原審における被控訴人攻法定代理人五十嵐延恵、控訴人清女および被控訴人斉の各本人尋問の結果、原審および当審における控訴人悌治本人尋問の結果(原審分は第三回)によると、被控訴人修二は右遺言当時大学法学部に在学中で、昭和二七年九月二日頃清市郎から「遺言書とはどのようにして作るものか。」との質問を受け、遺言書作成に必要な法律知識を与えたこと、同年同月四日被控訴人修二は清市郎方に起居していたこと、清市郎は明治一〇年頃生まれた者で、高等小学校卒業の学歴を有するにすぎず、同校卒業後は家業の農業に従事してきたが、大正七、八年頃から胃酸過多症、胃潰瘍の持病に悩まされ、みずから農業に携わることはほとんどなかつたことを認めることができるけれども、以上の事実をもつては控訴人ら主張のように右遺言書が清市郎の真意にもとづかないものであるとか、被控訴人斉、同修二、その母延恵が清市郎の病状に乗じ同人を強要あるいは同人に口授して作成させたものとは認めることを得ない。さらに、被控訴人修二の手紙(甲第四号証の一、二)の文調、内容を右遺言書と対比するに、右手紙が遺言書検認の後たる昭和二八年三月二二日被控訴人修二から控訴人悌治あてに書かれたものであることは前掲甲第四号証の一、二により明らかであるから、このことをしんしやくして比較対照し、右事実とあわせ考慮しても、控訴人らの右主張事実を認め得ないことは同様であり他に当該主張事実を認めるに足りる証拠もない。したがつて、控訴人らの遺言全部無効の主張は理由がない。

つぎに、控訴人悌治は、遺言第三項無効の理由として、控訴人悌治が東京美術学校在学中清市郎から貰つた学資金は四年分にすぎず、卒業後はなんらの仕送りも受けておらず、材木は費用の弁償としてこれを受けたものであるにかかわらず、遺言第三項はこれに反する無根の事実を前提として控訴人悌治に一物をも与えまいとする趣旨であつて、同控訴人の遺留分を剥奪するに等しく、かような遺言が効力を生じないことはいうまでもなく、また清市郎の真意でないことがうかがわれると主張する。遺言第三項は控訴人悌治に対しては生前贈与を限りとしそれ以上は相続させない旨の意思表示と解すべきことは前記説示のとおりであるが、仮にその意思表示が控訴人ら主張のように遺留分に関する規定を侵しているとしても、そのことは遺留分滅殺請求権を生じさせるにとどまり、遺言第三項を当然に無効とするものではない。さらに、清市郎の真意でないとの点についてみるに、成立に争いのない甲第三号証、乙第三号証、原審証人五十嵐三千雄、同須田六郎の各証言、原審における被控訴人攻法定代理人五十嵐延恵、被控訴人斉および被控訴人美津の各本人尋問の結果、原審および当審における控訴人悌治本人尋問の結果(原審分は第一回)の一部を総合すると、控訴人悌治は昭和五年三月東京美術学校日本画科を卒業した者であるが、その在学五年間中当初の一年間は当時の戸主であつた祖父清三郎から、残りの四年間は清三郎の死亡により戸主となつた父清市郎からそれぞれ学資金の送付を受け、また昭和二三年一一月家を建てるための材料の一部として清市郎から材木の贈与を受けたことを認めることができ原審証人五十嵐初子の証言、原審および当審における控訴人悌治本人尋問の結果(原審分は第一ないし第三回)中右認定に反する部分は措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠なく、材木は費用の弁償として受けたとの控訴人悌治の主張は右措信しない証拠を除きこれを認めるに足りる証拠がない。しかして、東京美術学校卒業後清市郎から仕送りを受けたことがないとの控訴人悌治の主張については、これに符号する原審証人五十嵐初子の証言、原審および当審における控訴人悌治本人尋問の結果(原審分は第一、第三回)は成立に争いのない乙第一号証、原審証人大川源治の証言、原審における被控訴人斉本人尋問の結果に照らしたやすく措信できず、他に右主張事実を認めるに足りる証拠がないから、結局、遺言第三項中「卒業後三年ハ送金」および「七千円ト算定スル」との各部分が事実と相違するかどうかはこれを断定し得ないことに帰着する。そうすると、遺言第三項中事実と相違すると認めうる点は、清市郎の学資金の送金は四年間であるのに、在学五年間の全期間にわたり送金したように記載されていることにあるだけであり、しかも、在学五年間中の学資金は、祖父清三郎であれ、父清市郎であれ、いずれも等しく五十嵐家の財産からこれを支出しているものと推認できるから、この程度の相違が遺言第三項にあることをもつては同項が清市郎の真意に出たものでないと認めることを得ず、また生前贈与のほかはなにものをも与えないとの遺言第三項の趣旨も、被控訴人斉の父であつて、清市郎の長男である清徳は、中学校卒業後は、上級学校に進学することなく、家業の農業に従事してきたが、太平洋戦争で戦死したこと(以上の事実は原審証人須田六郎の証言、原審における被控訴人斉本人尋問の結果により認めることができる。)を考えると、同項が清市郎の真意に出たものでないことを推認させるに足りず、右相違点をあわせ考慮しても同様であり、他に同項が清市郎の真意に出たものでないことを認めるに足りる証拠もない。したがつて、右控訴人悌治の遺言第三項無効の主張は理由がない(なお、控訴人清女、同源悦が本件遺言全部無効の理由として右控訴人悌治と同一の主張をなす趣旨であるとしても、その主張の理由のないことは右説示から明らかである。)。

してみると、控訴人らの本訴請求はいずれも理由がないから、これを棄却すべく、これと同旨の原判決は相当であるから、本件控訴を棄却することとし(控訴人らは当審において請求の趣旨を訂正したが、請求の趣旨を明確にしたにすぎず、請求の同一性には影響なく、控訴人らの本訴請求は前後同一であるから、単に控訴を棄却することとする。)、控訴費用の負担について民訴法第九五条、第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 小野沢龍雄 佐竹新也 篠原幾馬)

別紙

遺言

昭和二十七年九月四日 五十嵐清市郎

推定相続人ハ齊ヲ除イテ相続抛キスル事ヲ望ム

若シ問題ガ起キタトキハ各々ノ現在ノ相続分ノ最低限度ノ遺留分ノミヲ他ノ推定相続人ニ与エル

悌二ニハ当時(美術学校在学ノ頃)ノ金額ニシテ(在学当時更ニ卒業后三年ハ送金)七千円ト算定スル又終戦後ハ家屋ヲ建テル為ノ材木モ与エタノデスデニ遺産相続分ヲ超ヘタモノトスル 道ニハ若シ要求ガアルトキニハ其ノ遺留分ノミ即チ妻ノ受ケル分(三分ノ一)ノ半分ヲ与エル他長女清女次女幸恵ハ放棄シテクレルト思フ

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例